助産院での出産がテレビで取り上げられ、「自然分娩」の素晴らしさを目にするたび、自分のことを否定されたような気持ちになる。
個人病院ではあるが、普通の病院の手術台の上で、文字通り「切開」されて子供を取り出してもらった身としては、そういうのを目にするたび、「不自然分娩」してしまったような気になるのだ。
しかし、予定日よりも3週間以上前に出てきた我が子は、早産のわりには出てきたときの生育状況は良く、また今も標準よりも立派な体格をしている。
笑ったり泣いたりの騒がしい生活はとても楽しい。
そういう生活は決して「不自然」ではない。
私には陣痛の苦しさは無かったが、子供はかわいい。
だからこそ。
自然分娩を、助産院での「自然な出産」の「素晴らしさ」を目にすると、自分の体験したものはどうだったのだ?という気持ちになる。
出来るならば自然分娩したかった、という気持ちがあるかどうかといえば、産む前はそうだったが、今となっては後悔していない。
どちらかというと、「陣痛が無くてラッキーだった?」なんてことまでも思う。
(そしてそれは「自然分娩」とはかけ離れている。)
逆にアンラッキーだったことといえば、すぐに母乳が出なかったことぐらいか。
でも、それも今思えばそんなにおおごとではないような気もする。
私の腹の傷を指でなぞるほーに「ここからほーやん、出てきたんやでー」とか話している私の姿などはかなり滑稽で、またそういう「目印」が体にあるのはなかなか面白く思える。
「自然分娩」でなかったことは決して不幸ではない、と私は思っている。
(負け惜しみみたいなモンかもしれないけれど。)
でも、マスコミなどでの「自然分娩賞賛」をみると、そうではない自分は不幸であったかのような錯覚を覚える。
では、3週間遅くに、自然分娩でほーを出産していたとしたら、幸せだったのか。
…そんなことはないと思う。
今は本当に楽しいし。
極論、私に「寿命」が決まっているなら、3週間多く、ほーに会えたわけだし。
今日も「ジャーなる」を見つつ、ぐるぐると色々なことを思う。
自然分娩賛美を不快感をもって見つつ、自分はこれでよかったのだと思う。
これで満足。これでいいのだ。
…負け惜しみですかね。
言い訳がましいですかね。
で、次に産むことがあるとしたら、そのときも帝王切開。
同じ場所を切るそうなので、ほーの時の傷かどうかわからなくなるのかなぁ。
それはなんだか勿体無いような気も。(苦笑)