母方の実家は長崎市にあって。
うちの母親は昭和16年に満州に生まれているので、原爆が落ちた時には満州にいたし、
どっちかというと被爆よりも残留孤児になる確率が高かったような人なんですが、
満州にいかなくて長崎にいた異母姉がいて、その方なんかは原爆で亡くなっているそうで。
(ま、勿論うちの母は逢った事が無いお姉さんなんだけど。)
まだ他にも原爆で亡くなった親戚はいらっしゃるらしいけど。
直接的に被爆してないけど、原爆投下数日後に被害の無かった市外の離れた町から親戚の消息を探しに長崎市内に入り、
原爆の焼け野原を歩いて、残留放射能で被曝した親戚もいるし。
(なもんで、その方々は被爆者手帳を持っていた。
でも、体調は特に悪いわけではなさそうだったけど。)
お盆に長崎に行くと、じいちゃんが亡くなった人とかの話をしていたなぁと。
じいちゃん自体も満州にいて、原爆は直接的には知らないんだけど。
そのじいちゃんも94年に大往生しているんですが。
「一人の兄妹も欠かさず、満州から連れ帰った父は~」と
叔父さん(母の兄)が、喪主挨拶していたなぁと今思い出した。
色々大変だったろうに、と思う、それはちょっと本筋からは離れた話だけど。
そんなわけで、長崎や原爆とは何かと縁深く。
じいちゃんの家があった所も爆心地近かったもんなぁ。
それにまぁ、私の生まれ育った小倉って所は、元々長崎に落とされた原爆が落ちるはずだったところで。
西日本最大の軍需工場があったのが小倉で、必然的に目標に。
でも、前日の隣市・八幡(製鉄所がある)の空襲で焼夷弾の煙が小倉に流れてきていて、目標が視認できず、
結局小倉に投下できずに長崎に投下。
そんな話も、小倉に生まれ育った子供は、小学校の平和授業でずっと聞かされてきた話。
で、今日はそういう日。
もう57年だそうです。
この日のイベントの会場が変更されたという事件もありましたが、
(個人的には、身内に犠牲者や被爆者がいますが、某団体の抗議に対しては…うにゃうにゃうにゃ。)
それは別として、慰霊の気持ちは持っている、ということで。