びくでん家主2号・アーの日記。
たいしたことを書くとは思われない。(なんだかなー。)
アルフィーファンサイトなのにTHE ALFEEネタは少ないかも。(…。)

 

2001年03月24日(土)

最後の日。

朝は土曜日の割には早起き。
やることがいっぱいあった。

福岡で髪を切る。
ツアーも間もなく開始だし。

あとは花束を購入。
と、いうのも、
うちの両親がやっている店が今日でおしまい。
…別に、営業成績が悪くて閉めるとか、そういう不景気な話でもない。
(ま、完全に間違っているわけでもないですが。)
うちの父親は、その道40年超の調理師(日本食、和食)で、とある新聞社に雇われて
そこの社員専用の会食場(宴会とかに使う)の支配人をしている。
母はそこで帳簿をつけたり、まぁ、おかみさんのようなことをしているのだが、
その新聞社の西部本社としての機能が、小倉から福岡市に移るに従い、
利用者も減り、閉鎖決定、となったわけだ。
(注:全国紙各紙の西部本社は何故か昔から福岡でなく小倉にある。
   当時、福岡よりも北九州のほうが大きな都市だったから、なんでしょうか?
   現在は福岡市の方が30万人ほど多いのかな?
   北九州は新日鐵がかなりの人口を稼いでいましたからねぇ…)
その店をはじめたのが、私が中学生1年生の秋だから、18年目の閉鎖、ということになる。
母は2月に還暦を迎え、まぁ、定年退職みたいなものなのだが、
父は只今58歳と4ヶ月。残り1年8ヶ月は社内で別の仕事をするとの情報。
(家族的には、包丁以外を持ったことの無い人に、デスクワークが勤まるかどうか心配なところ。)
この1~2年は閉鎖の噂はずっと出ていて、福岡に新しい会食場を作り、そっちに異動する、とか
箱根にある会食場(こっちは宿泊施設つき)の人が定年を迎えるから、そこに異動、とか、
早期定年とか、会社の上からの正式な情報は無いものの、
人々の口からの噂は絶えず、(そのくせ、本社から正式な話は一切無く、)
母などはおととし夏に、それがきっかけとも言われる入院をしたりと
なかなか大変でした。
(…しかし、この説明↑、この新聞社にお勤めの方が見たら、自分の会社のことだと分かっちまう内容やね。)

で、まずは髪を切りに。
私は、実妹から紹介カードを貰った店に。
旦那も髪を切りに別の、昔行っていた店に行ったのだが、そっちは混み混みでアウト。
私の方が終わるまで時間つぶしをするハメに。
ちょっと短めにし、染めていたのが伸びて、黒くなったところを調整。
その間、地震発生。
ゆっさゆっさと揺れる、が福岡市はたいしたことナシ。
しばらくして、東京在住のYちゃんよりメール。
「地震大丈夫?小倉は震度3?大丈夫?」
え?そうなの?とやや驚き。
今、福岡にいるけど、ここも揺れたけど震源どこ?と返信。
「広島か松山かな?震度6だって」と答え。
かなり大きかったらしいということを知る。
その頃の旦那は、歩いていて、気が付くと信号機が揺れていて地震を知ったらしい。

店から出て、(自分での想定時間をオーバーしていたもんだから)
旦那のいるところまで走って、その後、車に乗って急いで小倉に帰る。
一旦家に戻り、花束を求めて再び外出。
木曜日に行ったところ(本店)は既に閉まっていて、中心部にある支店で花束4つ調達。
両親と、そこで長い間働いていた従業員さん2人に。

21時の閉店まで時間があったので、とりあえず家に戻り、夕食を食べてから店に。
客が全部出るのを、物陰に潜んで確認した後、花束持って突入。
家に父が戻らないのでいるだろうと思っていたら、
父は家に帰らずそのまま呑みに行っていて、結局父には直接渡せず、母に二つ渡す。

物陰に潜んでいる間、色々なことを思い出した。
18年といえば、自分の人生の半分以上。
本当に自分はここに育ててもらったんだなぁと実感。
私でもそういう思いがあるくらいだから、両親にしてみれば、色々な思いがあるのは当然だろう。

夜中、家に帰ってきた父が、母に向かって「お疲れ様」を連発していた。
定年とか、そういう決まったことでの終幕ではなく、
こういう「会社の事情で」という終わり方をしてしまうなんて
こんなことを全く想像していなかったのは、私も勿論、両親もそうだろう。
何だか、やりきれない気分でいっぱいだ。